登場年:昭和43年(1968年)
運転区間:大阪⇔新潟(青森)
使用車種:PC10系・PC12系・PC14系・583系等
「きたぐに」という急行列車が登場したのは昭和36年10月のダイヤ改正のことで、金沢〜新潟間の気動車急行として登場している。
その後、大阪〜新潟間に運転区間を改めており、現在の運転区間と同じとなるが、列車の性格自体はまったく別物であって、キハ58系等を使用した昼行気動車急行であった。
昭和43年10月のダイヤ改正で、大阪〜青森間の急行列車であった「日本海」が特急へ格上げとなった。このときに急行として後を継いだのが「きたぐに」であった。それまでの「きたぐに」は「越後」と改称している。ちなみに「越後」はその後昭和57年まで存続する。
さて、大阪〜青森間の急行列車となったが、時刻的には夜に大阪を出て、新潟のあたりで朝となり、新潟で寝台車を切り落とし、座席車となって夕方に青森に到着するというダイヤであった。したがって、現在であれば明らかに新潟で系統が分割されるであろう性格の列車であった(当時はこういう列車が当たり前だったが)。
昭和47年11月、「きたぐに」は大きな事故の当事者となる。北陸トンネルの火災事故だ。
当時「きたぐに」に連結されていた食堂車オシ17から出火、列車は当時の規則に基づいてその場で停車したのだが。。。そこはトンネルの内部であり、煙がトンネル内に充満し、多くの乗客が犠牲になるという悲惨な事故となった。
この結果、難燃化対策が皆無であったオシ17は一斉に使用停止となり(もっとも、当時すでに使用列車は「きたぐに」等わずかな列車だけであったが)、なおかつ、火災の際の対処もトンネル、橋梁などでは乗客が安全に退避できるところまでは停車しないように規則が改められた。また、長い目で見ると食堂車廃止への第一歩ではなかったか。
さて、昭和48年になると座席車として使用していた雑多な客車群が急行列車として使用していくには適切ではなくなってきたため、12系客車に置き換えられた。寝台車に関しては20系には置き換えられず、10系のままであった。
この状態で、昭和57年まで運転されるが、この頃になると10系客車は老朽化も激しく、もはや急行列車の寝台車として使用するのは困難となっていた。また、上越新幹線が開通した際に、新潟からの羽越本線系統の特急列車の整備が行われることになったため、新潟以遠は特急に移行することになった。
その結果、車両は座席車、寝台車ともに14系となり、大幅にグレードアップとなったが、運転区間は大阪〜新潟間となった。
昭和60年のダイヤ改正では、昭和57年以降大量に余剰となっていた583系の有効活用ということで、「きたぐに」に583系が使用されるようになった。この置き換えはスピードアップには寄与したが、座席車などは明らかにサービスダウンしており、一部の利用者からはあまり歓迎されなかったとも聞く。
この状態でJR化となるが、昭和63年のダイヤ改正で、新潟付近の通勤輸送に対処すべく、下りの新津〜新潟間が快速となった。
その後は同区間を走っていた「つるぎ」が廃止となった関係で、好調な利用率を誇っており、休前日などは結構な乗車率となっている。
数少ない急行列車となったが、A寝台、B寝台、グリーン車、自由席・・・と、バラエティーに富んだ構成等は昭和40年代の急行列車を思い起こさせてくれる貴重な列車なのである。