登場年:昭和47年(1972年)
運転区間:上野〜金沢
使用車種:489系
昭和36年10月のダイヤ改正で、首都圏と北陸を直通する特急「白鳥」が登場した。この列車は行先こそ大阪行きであったが、当時は通しの乗車券・特急券を購入することは出来ず、上野〜金沢間と金沢〜大阪間という区間で切符を購入しなければならなかった。このような対応であったにもかかわらず、特段苦情等が出なかったのは金沢を跨いでの直通客がほとんどいなかったからである。
その後、昭和40年に「白鳥」の青森編成増強のために上野〜金沢間は「はくたか」として独立した。昭和44年に「はくたか」は電車化されることになったが、碓氷峠を越えるとなると8両に編成が制限されるため、遠回りとなるが上越線を経由して長岡回りにルートが改められてしまった。このときに信越方面への手当ては特にされず、一旦は信越本線経由で北陸へ向かう特急は消滅した。
昭和47年、碓氷峠でEF63と協調運転が可能な489系が登場し、12両編成での運転が可能となった。このため、信越本線経由で運転されていた急行「白山」が特急へ格上げされることとなり、再び、信越本線経由での北陸特急が復活した。また、当時は特急「あさま」が181系での運転であったため8両に制限されていたこともあり、大きな輸送力増強となったのである。また、信越特急待望の食堂車も連結された。
首都圏と北陸の到達時間を大幅に縮め、登場後2年の間に3往復まで増強された「白山」であったが、豪雪地帯で勾配線区でもあった信越本線を走行するにはMT比1:1は厳しく、とくに冬季のM車故障などによる遅延・運休は看過できるものではなく、編成の組み換えが必要となり、昭和53年にサシとサハ抜いてM車を増強した。
ところが、昭和57年の上越新幹線開業の際にどういうわけか食堂車が復活。昭和50年以降食堂車は廃止になる一方で、53年の「白山」の食堂車廃止もその一環と思われていただけに、色々な憶測を呼んだ。しかし、この措置も昭和60年の在来線電車特急の食堂車全廃によって、前代未聞の珍事として記憶されるにとどまった。
上越新幹線の開業によって、首都圏から北陸方面への移動は長岡乗換えが一般化し、6時間以上かかる信越本線経由の「白山」は次第に直通特急としての地位を失いつつあり、昭和60年に2往復に、平成4年にはついに1往復に減った。そして、平成9年についに長野新幹線の開業に伴い、信越本線が横川〜軽井沢間で分断され、軽井沢〜篠ノ井間が「しなの鉄道」となったことにより、「白山」も廃止となった。「能登」が上越線経由で生き残ったことを考えると、すでに「白山」は信越特急としての運転がメインであり、特徴であった北陸連絡特急としての存在意義はなくなっていたことがわかる。