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山陰地方への特急列車網が大きく発展した昭和47年。山陰方面へ向かう昼行特急は、この年だけで3往復から12往復へと爆発的に増加した。 この勢いは夜行列車にも波及し、東京から山陰へ向かっていた急行「出雲」が特急に格上げとなった。車両については当時の新鋭車両14系の採用は見送られ、20系による運転となったが、まだ特急にも20系が主力として使用されていた時代であったため、特に問題はなかった。 その後、夜行列車についても昭和50年に「いなば」が特急格上げとなったが、昭和53年に「いなば」は出雲市へ延長の上、「出雲」に吸収され、「出雲」は2往復体制となった。浜田までの1・4号は食堂車の営業があったが、2・3号は食堂車は連結していたものの、営業はしていなかった。また、2・3号は名古屋で「紀伊」と併結していた。 昭和59年に「紀伊」が廃止となった後はどちらも単独の列車となってこの状態でJR化されることになった。 JR化によって1・4号はJR東日本、2・3号はJR西日本の受け持ちとなった。 1・4号はA寝台を除いて金帯となり、食堂車のグレードも上がった。しかし、利用客低下のため、東海道ブルートレインとしては最も早く平成3年に営業中止となっている。 2・3号は食堂車の連結そのものが中止されていたが、客室の多様化などの改善が図られ、リーズナブルな値段の3段寝台の復活など話題を集めた。 「出雲」はJR化後も比較的平穏な状態を維持してきたが、平成10年に新型寝台電車285系が登場すると2・3号がこれに置き換えられ、それまでの山陰本線経由から伯備線経由へと改められ、列車名も「サンライズ出雲」となった。 1・4号はこの改正で出雲市〜浜田間が廃止となったが、ブルートレインとして残った。 現在は編成両数が通常は電源車込みで9両という状況であるが、非営業とはいえ、東海道ブルートレインとしては唯一食堂車の連結があるなど、往時のブルートレインの姿を今に伝える貴重な列車であり、新幹線等の競合交通手段がいまいち未整備なことにも助けられ、堅調な需要を誇っていたが、それでも乗客の減少には歯止めがかからず、平成18年3月のダイヤ改正で廃止が決まった。
私の田舎が鳥取県であったということもあり、「出雲」はブルートレインの中でもダントツで利用回数が多い。また、国鉄時代に利用した唯一のブルートレインでもある。 このとき乗車した区間は倉吉〜東京間で、列車は「出雲」2号であった。夜はほとんど眠らず、暗い外の景色を見ていたのを覚えている。次から次へとすれ違う貨物列車に驚いたのも覚えている。この列車には食堂車が連結されていたが、営業はしていなかった。食堂車で食事がしたいと思ったのはこのとき以来の希望である。 その後、しばらく乗車の機会はなかったが、平成7年に「出雲」4号のA寝台に乗車した。倉吉から横浜までである。このときはA寝台が期待したほどの設備ではないなぁというのが正直な感想であった。個室であるし、空調も調節可能だったが、なんだか圧迫感があった。 私が「出雲」に乗るのは上りが多かったが、最近はのんびりと下りに乗ることが多い。下りの「出雲」の雰囲気は上りとはずいぶんと違うのが印象的だった。この印象の違いはなかなか興味深く、ブルートレインに乗る楽しみの一つでもあるが、「出雲」ではより際立っている気がする。 一度だけ、倉吉から出雲市まで立席で乗車したことがあるが、米子以遠はほぼ空気輸送に近く、出雲市の車庫への回送のようなものだ。
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